VOL.10  新しい発想で創る子どもの遊び場


子どもの生きる力を養う遊びの世界

子どもたちへの一番大切な贈り物は美しいもの、未知なるもの、神秘なるものに目を見はる感性である。その感性を育むため、子どもと一緒に感覚のすべてをかたむけて自然とふれあいましょう。(レイチェル・カーソン)

 『沈黙の春』の著者で知られるレイチェル・カーソン最後の著作「センス・オブ・ワンダー」(佑学社刊)からの言葉である。
 美しいものを美しいと感じる感覚、新しいものや未知なるものに触れたときの感激、思いやり、憐れみ、賛嘆、愛情などのさまざまな感激がひとたびよびさまされると、次にその対象となるものについてもよく知りたくなり、そこで見つけだした知識はしっかり身につくものである。だから物事を消化できない子どもに事実ばっかりうのみにさせるよりも、子どもが知りたがるような道を切り開いてやることが大切である。子どもは成長する日々に、毎日毎日多くのことに出会い、そういう出会った事実ひとつひとつがやがて知識や知恵を生み出す種子になる。そして、さまざまな情緒や豊かな感受性はこの種子を育む土壌であり、幼い子ども時代はこの土壌を耕す時なのである。この耕す時こそ大切なのに、名前を覚えることに重点をおいている幼児教育施設が多くみられるが、鳥や星や植物などの名前などは図鑑などでいつでも覚えられる。それよりも身近な題材の空や星・風・雨・植物・動物などの自然の不思議さや素晴らしさ、「いのち」の成長の様子を五感(手・耳・口・目・鼻)で感じる場や原っぱなど、自由に遊べる空間とそれを手助けする親・教師の「遊び」に対する理解が必要である。
 子どもは、親にとっても社会にとっても、かけがえのない存在であり、子どもが人間として健やかに成長することはすべての人々の願いである。八戸市民憲章にも「あすをつくる子どものしあわせなまちにしましょう」と唱ってある。
 子どもが人間として健やかに成長してゆくためには、いうまでもなくそれに必要な環境がある。少なくても家庭・学校・地域社会・仲間・遊び場・自然環境が十分に整っていれば、そこで初めて子どもは自由に伸び伸びと学び、遊び、考え、創り、そして休むなどの日常生活を送ることができる。しかし今や子ども生活環境は複雑多岐な問題をかかえ、心と体を蝕み「学齢期症候群」という様々な症状をひきおこしている。私は、その生活環境の中でも遊び場(昔の子どもたちが遊んでいた路地・空地などの空間)の減少が一因だと疑わない。そこで遊びの重要性を知ってもらいたいのである。
 子どもにとっての遊びは生活の一部そのものであり、子どもの成長になくてはならない、いわば心身の栄養であり子どもの人生の栄養となるものである。古くからの子育て観のことわざに「よく学べ、よく遊べ」や「三つ子の魂、百まで」などあるが、これこそが今でも基本であろう。
 自分で選択できる遊びの世界では、挑戦と失敗の試行鎖誤を自分のペースで繰り返すことができ、その繰り返しのなかで、自分の力を身につけ育てる絶好の機会である。また子どもは、遊びたいから面白いから遊ぶのであって、それ以外の目的はもっていない。しかし子どもはこの遊びの中でこそ、生きてゆくのに必要な自主性・気力・創意工夫・協調性・思いやり・忍耐力・豊かな感性などの力を身につける。これらの力は、人間が人間としての生活(職場・結婚など)を営むうえで持っていたい力である。そして子どもは、このような力を身につけるために遊ぼうとするのではなく、楽しいから遊ぶのである。こういう遊びの本能を逸脱した結果、今では様々なことが子どもたちに起こっている。「外で元気に遊ばないと、筋肉が衰えるだけでなく神経と筋肉の働きまできこちなく、疲れやすくなること」「テレビゲームなどにより子どもの目は疲れ視力低下をまねいている」「小さい頃、ケンカをしないからケンカの仕方がわからず相手に致命傷をあたえる」「受験戦争による塾通いで、やすらぎを知らず、ストレスで胃かいようや心身症などになる」などの他、非行や登校拒否の問題も起きている。一見豊かに見え、幸せそうでも、子どもの環境は悪化している。わが街八戸も例外ではないのではなかろうか。
 わが街八戸には、子どもたちのふれあいの場や遊び場として児童公園(74カ所・平成2年3月31日現在)や「子どもの国」が大きな役割を果たしている。しかし、子どもたちにとっての本来の遊びという立場から見れば、公園を造る際の基本方針に少しズレがあるように思う。児童公園などは魅力のない場になり、「子どもの国」は遊園地化している。今、求められるものは、新しい発想なのではなかろうか。
 また、今後の学校週5日制において、地域社会の受け皿をどうするのかも問題であろう。
今や公園面積の平均値を掲げて整備する時代は終わろうとしている。いくら平均面積をもつ公園が存在しても、そこまでの距離が遠すぎたとしたら恩恵は少ない。児童公園までの距離はおおむね250メートル以内という基準があるのだが、市街地ではなかなか難しい(公園のない地区は再開発によって公園用地を捻出するか、空地を行政で買いとるか、民用地を借り上げるなどの必要がある)。
 しかし今、子どもにとって必要なのは、公園面積より豊かな遊びの環境の質であり、この環境作りをすすめるのは、大人の務めでもある。

 豊かな遊びの環境とは、

1.子どもが自ら遊びを選択できるような多様性のある遊びの環境であること。
2.空間だけではなく、子どもを引きつける物や遊び心をかきたてる人がいること。
3.遊び場のまわりには、遊びを許容できるような人間関係があること。
4.子どもや親などが公園づくりに参加できること(市では以前、中居林公園建設にあたり、住民や子どもの声を参考にしていた)。

などである。


自分の責任で自由に遊び、学ぶ

1.冒険遊び場

 1943年の第二次世界大戦中、コペンハーゲンの郊外住宅地エンドラップにて、造園家ソーレンセンが廃材を利用して遊び場を創ったのが始まりである。彼は、造園家が創った小ぎれいな遊び場よりも、ガラクタが置いてある遊び場を子どもたちは大喜びで遊んでいるということに着目したのである。そして大戦後のヨーロッパにおいてそれを拡大していった。
 我が国では、1975年に世田谷区の経堂で、夏の間だけ空地を一時的に借り受け、廃材を使って小屋や遊具が手づくりで造られた。そして、経堂、桜ケ丘地区の空地を転々とした後、1979年に行政の協力を得て、羽根本公園の中にプレーパークがオープンした。これは住民の自主管理で運営され、子どもが自由に小屋を作ったり、焚き火をしたり、穴を掘ったり、普通の公園ではできない遊びができる。子どもたちは「自分の責任で自由に遊ぶ」ことをモットーにして現在に至っている。冒険遊び場に呼応するかのように、全国各地で主に主婦たちの手で原っぱ運動が始められた。彼女たちは、「土」「水」「火」「虫」などの自然環境の重要性を訴え、規則の多い管理された公園ではなく、自由に使える自然の広場づくりをめざした。

2.子どもたちの施設

 アメリカの子どもミュージアムの一番のコンセプトは「PLEASE TOUCH!」(触ってごらん!自分で確かめてごらん)である。「手を触れてはいけない」から「手を触れてごらん」に根本的に変わったのは十年前からで、児童心理学学者のジョン・デューイの影響が大きい。
 学ぶということは知識をつめこむことではなく、子どもたちが参加して主体的に取り組むことであって大人の役割りは子どもを厳しくしつけることではなく、彼らが学ぼうとすることの手伝いをするガイドのようなものである。ボストン子どもミュージアムでは「もしも君が障害者になったら」というプログラムのもと、様々な舗装面を車椅子で体験できるようになっている(このようなプログラムは、根城に建設される市総合福祉会館にも欲しいものである)。
 こういう発想などから、学ぶべきものは学び、子どもの遊び場のマンネリを打破しなければならないだろう。また、故三浦清先生の夢であった、子ども美術館を含めた子どもミュージアムの建設、野鳥観察の場、種差海岸などに自然観察施設(海岸をフィールドとして岩や貝や海浜植物の観察など)を21世紀に向けて整備することが必要であろう。
 今や子どもの感性を育む環境づくりだけに止まらず、まちづくりは、住民の自分たちが参加して手で創りあげるという時代である。