VOL. 5 中核市実現への期待

 巷では市町村合併論議が語り始めている。今なぜ市町村合併なんだろう?
今春の3月8日、中里信男八戸市長は定例市議会の一般質問に答え「(近隣町村との)合併を視野に入れる必要がある。住民の生活圏が行政区域を越える現状にあり、まず人口30万都市を目指すことは有意義だ。当市や近隣町村の住民の考えに極めて高い関心を抱いている」、「地方分権の受け皿として中核市制度を考えた場合、合併を視野に入れる必要がある」など初めて市町村合併に対して前向きな姿勢を示した。
こういう背景には、市町村合併特例法が3月末で期限が切れ、4月1日から改正案が施行されたためである。
 この改正案で最も注目されるのは、住民発議制度で、有権者の5〇分の1の署名を集めれば、首長に合併協議会の設置を請求できることである。請求を受けた首長は関係市町村に意見を求め、合意が得られれば60日以内に、それぞれの市町村が議会に付議し、合併への道が開かれる。
そのほか、議員の任期や定数の特例を広げ、議会側が自分の地位へのこだわりから合併に消極的にならぬよう配慮しており、また、交付税の右積み期間や、過疎債発行期限の延長は、財政面から合併に拍車を掛けようとしている。
                 
 もし仮に、近隣市町村と合併が成立し、中核市に指定されて、政令都市に準じた権限が委譲されれば、八戸の地域づくりも発展するであろう。

−中核市とは−
 規模能力が比較的大きく、地域行政の充実を図るため、住民に身近な行政を行うことができるように事務権限を強化する都市のことを指し、1994年6月の地方自治法の改正により、人口30万人以上、面積100平方Km以上、人口が5〇万人未満の場合は昼夜間人口比率が100を超えているという要件を満たし、議会の議決とともに、都道府県の合意を得て政令で指定された都市を中核市とする制度が創設された。中核市には政令指定都市に準じた権限が委譲されるものとされており、保健所の設置のほか、政令指定都市が処理できる事務のうち、広域的な事務を除いたものが処理ができる。

 さてわが街八戸の合併の歴史をふり返れば、1929(昭和4)年5月1日に、八戸町(21,030人)、小中野町(7,923人)、湊町(12,587人)、鮫村(4,973人)が合併して、八戸市が誕生した。その時県議であった神田重雄は、八戸市制の実現を図って奔走した。以前にも4ヵ町村の合併論議が幾度となく浮上し反対も多かったが、「八戸市史」には八戸市制がこの時期になって広く要望されるに至った経緯が書かれており、その背景として二つの要因を指摘している。
 『ひとつは八戸・小中野・湊・鮫の4ヵ町村がこぞって推進をはかってきた鮫漁港の築港工事がほぼ完成に近づき、また内務省が重要港湾の指定を拡げようとしていたので、この機会をとらえて内務省指定をうけ、更に商港として発展をはかるには鮫村・湊町ということでは絶望的であって、ぜひ市制をしく必要があったこと。いまひとつは八戸大火(大正13年5月16日)の前年に関東大震災があったが、その東京は被害にもめげずめざましい復興を示し、従来と違った東京がうまれれつつあったが、八戸・小中野・湊の大火の復興も東京を見習って新しい都市を誕生させたい、という念願があった。そのためには目前に完成をみようとしている鮫漁港を更に発展させ、港湾機能の拡充と東北本線とを結ぶあらたな産業都市をつくるため、4ヵ町村の合併をはかることによって地域の飛躍を期待すべきだ、ということが、港湾と復興という課題として登場してきたことである』。
 こうした情勢のもとに、まず小中野町が市制施行を議決するが、合併後、要となるべき八戸町は容易に進まなかった。この説得に当たったのが神田重雄であり、いろいろな紆余曲折があり、ようやく合併が実現したのである。
 その後
1940(昭和15)年 館村の一部
1942(昭和17)年 下長苗代村
1954(昭和29)年 是川村
1955(昭和30)年 市川村、館村、上長苗代村、豊崎村
1958(昭和33)年 大館村
が合併し現在の八戸を形成している。

日本のこれまでの市町村の再編、合併の歴史をみてみると
◎明治20年代の大合併で、各市町村が小学校を各々運営する必要から最小規模がおのずと見え、300から500戸が適当であった。そのため、それまで7万強あった市町村が約1/5の1万5千程度に集約された。
◎昭和28年から昭和31年にかけての昭和の大合併で、新制中学をそれぞれ持つために、8千人を最低規模に強制的に進められたため、それまで9千800強あった市町村が四千弱に集約された。
◎現在は、各市町村が特別養護老人ホ−ムを持たなければならなくなるように、福祉対策を独自に行えるための最低人口の約30万人が目安といわれている。

 一方、住民の生活圏と合併の関係を見てみると、昭和30年頃であれば、日々の暮らしの交通手段は徒歩か自転車であり、買い物は近所の商店で済ませていた。また通勤も通学も市町村のエリア内におさまっていた。ところが約40年経た現在は、市民の日常生活は現在の市町村エリアではおさまらなくなってきている。職場も自分の住む町村からマイカ−や電車で通勤したり、通学先は、小中学はさておき、高校、大学となると、自分の町村でない場合が多い。買い物もマイカ−でス−パ−や百貨店に出かけることが多い。八戸周辺を見ても、八戸周辺町村や岩手県北からも、多くの人が通勤しているし、通学をみても市内から岩手県北の高校へ、また逆に周辺町村の学生が市内に通っている。また買い物も市内の人が下田SCへ、周辺市町村の人が八戸のSCや中心街へ買い物に来ている。それぐらいここ数十年の間に、交通網の基盤も着実に整備されてきており、またライフスタイルも大きく変化し、経済の面においても、余暇の面においても、行政の町村境は人々によって無いに等しい。そして市民生活と市町村の行政圏に、大きなズレが徐々に進んでいる。
 もし仮に合併したとしたら、どんなメリットやデメリットがあるのだろう。

まず合併のメリットとしては、
・行政経費の節減により大きな財源が確保できる。また議会や行政組織が一つになるので議員や行政委員会などの特別職の数が減り、加えて管理部門や一般事務員の必要数も以前よりは削減され、人件費が大きく節約できるなど、行政基盤の強化がはかれる。
・各町村が同じような小規模のホ−ルを各自治体が造っていたものを、規模の大きな施設を一つ建設するなど、無駄のない施設整備ができる
・住民の負担とサ−ビスなどがバランスよくなり、生活圏と一致するようになる。
・五万人の町と30万人の市では、大きな市のほうによい人材が集まるなど、人材確保がしやすい  
などが考えられる。

合併のデメリットとしては
・本当にしこりは残るのか?
・代表制の交代は起こるのか?
・行政サ−ビスの低下は本当か?
・本当のデメリットは何か?
 などがあげられている。

 以前長野県諏訪地区では、56%もの署名を集めながら、合併ができませんでした。6市町村のうち2市1町は議会で採択されたものの、残り2市1村では継続検討ということになり、合併できませんでした。56%の中身を見れば、6つの市町村別では、それぞれ約75%、70%、60%、51% 、40%、17%の署名でこれが全人口の56%の中身でした。一つの議会が通らなければ合併は見送りなので、本当に難しいことなのです。
仙台市と名取市の合併も失敗しました。この失敗例を大いに参考にすべきであろう。

ちなみに八戸市及び隣接町村の百石町、下田町、五戸町、階上町、福地村、南郷村の1市4町2村で面積632.29k・、人口31万2253人になる。その他参考として
・北奥羽地域(青森県南・岩手県北・秋田県北の6市19町9村)
 面積 6450.04k
 人口 723,38人
・南部地方生活圏(青森県南の3市15町6村)
 面積 3364.35k
 人口 561,689人
・八戸地域広域市町村圏(青森県南の1市8町4村)
 面積 1345.5〇k
 人口 360,043人
・八戸圏域水道企業団(青森県南の1市8町2村)
 面積  980.93k
 人口 355,256人
・八戸地方拠点都市地域(青森県南の2市6町2村)
 面積  920.01k
 人口 376,923人
《面積は平成5年10月1日、人口は平成6年9月30日現在》

手考足思−豪さんの雑感
八戸市いや北東北地域の中に30万都市、いや50万都市が日本の均衡ある発展のためにも必要であると思う。そして合併も必要と思う。しかしそれが真に住民が望んでこそ成功するであろう。経済優先で一部の人々だけの合併論議はダメである。そのためには、大いに議論し、話し合わなければならない。そしてそれに関する資料などもどんどん市民に提供されることを望む。

参考文献
「神田重雄傳」中里進著・東奥日報社
「新しい地球市民の未来に向けて」
      社団法人日本青年会議所