VOL. 4 多言語ワールド

 6月9日八戸から夜行寝台列車に乗り、明朝には掛川市のタウンウォッチをして、天竜浜名湖鉄道のトロ−リ−バスに乗り、2時間かけて奥浜名湖駅で降り、ヒッポファミリ−クラブ男合宿の会場、浜名湖レ−クサイドプラザへ到着した。さあ全国男合宿の始まりである。昨年の男合宿のビデオを見て雰囲気は分かっていたが、初めての参加なので緊張した。なぜ本当に自分がこの合宿に参加しているのか不思議であった。またロシアに行けたこと自体も今考えると不思議であった。確かにヒッポに入って自分の何かが変わっているのが、はっきり分かる今日この頃である。
 今回、榊原陽さんのレクソロジ−は、やはりK介から始まった。久しぶりに聞く話は刺激であった。その中で「初心に帰ってまた新たにヒッポをやろう」「自分のためのヒッポ」などいろいろあったが、今改めて「初心に帰る」ということで、入会して約4年を振り返ってみようと思う。
 ヒッポとの出会いは、4年前妻の智子が清川哲子さんに紹介されて、ファミリ−に長女真理恵を連れて参加したのがきっかけであった。智子と真理恵は家に帰ってくるなり、「すごく楽しかったよ」と興奮気味であった「お父さんも一緒にやろうよ」という問いに「じゃあ」と参加してみた。入会するにあたっては、いつも自分は外国人を前にすれば、心を閉ざしてしまう自分も嫌だった。だが32才になって言葉を覚えるのであろうか?という疑問もあった。それより娘には、「将来日本人だけではなく多くの外国の人たちと交流でき、国際的な視野を持ってもらいたい。そのためには外国語も覚えた方がいいのでは?」というような第3者的立場の簡単な考えであった。また私自身慢性腎不全から透析生活をしており、また長男翔の病気などで、多くのことを考えさせられ、その中でも「家族」というものを強く意識した。真理恵が翔と中々面会できなかったが、ちょうど五月の連休で病室が翔だけになり、翔を囲んで食事できたことである。『お金もいらない、物もいらない、ただ家族皆がそろって初めて食事できた。』ということが今まで一番幸せであった。そういう思いもあって、家族で参加できるというところも魅力であった。それに自分が病気で心が純粋であったのかもしれないが、素直にSA!DA!には入ることができた。また大学時代に環境学を学び、環境の大切さは身に沁みて感じていた。そして誰の講演も聞かずに入会した。
 間もなく智子は妊娠し、私は92年の7月に仙台の社会保険病院で、姉から2個ある腎臓のうち1個をもらい生体腎移植をした。その年の11月に二女(杏奈)が生まれた。そういう事情で入会してもファミリ−には参加できずにいたが、私も元気になり杏奈も外へ連れて行けるようになったので、93年2月28日仙台で開かれたワ−クショップに家族で参加した。そこで初めて生で榊原陽さんの話を聞いた。「言葉の向こうには、必ず人間がいる。」「いろいろな言葉を覚え、多くの人と出会い、刺激を受け、自分の生を豊かなものとしたい。」「死を迎えるときは、グッパイと笑って逝きたい。」など心に共鳴するものがあった。
その後は体調も良く、仕事はもちろんJC(青年会議所)に入会し毎日が忙しくなり、ついついファミリ−には参加できない毎日が続いていた。
 94年8月6日岩手の八幡平で東北交流会があり家族で参加したが、何故かフェロウ宣言をしてしまった。将来フェロウになろうとは思っていたが、まさか?あの時マイクを持ちながら、ん・・・とためらい考えながら、フェロウをやると言っちゃえと決断した。それに移植後は日々「何事にも勇気をもって一歩を踏み出すこと」を目標にしていたからかもしれない。今は智子がフェロウになりがんばっているが、山形新庄の山崎隆二さんには、皆の前で話す場を与えてくたことに感謝している。
 やはり智子がフェロウになったことで随分変わった。
ファミリ−名は、ポラ−ノファミリ−。宮沢賢治のポラ−ノ広場は、「誰でもが歌い、語り合える広場、自分たちでつくる広場」である。そういうファミリ−を創りたいという願いのもとに名づけ、94年11月にスタ−トした。
 そうこうしているうちに海外へ行こうと言うことになったが、中々踏ん切りがつかなかったが、今は元気だがいつまた透析生活に戻らなければならないか?という不安もあり、元気なうちは「何でもしてみよう。挑戦してみよう。」と思い、思い切って家族で行くことにした。そして台湾・大連・ロシアが候補に上り、日程の関係もあってロシアのナホトカにホ−ムステイすることになった。 忙しく充分なテ−プを聞く準備もできないまま、ロシアへ行くことは不安であった。それに追い討ちをかけるかのように、DNAの冒険を読んで、増々不安が広がった。体験記を書いているメンバ−たちより自分は何一つロシア語が出てこない。テ−プはここ4ヶ月は結構聞いているが・・・・。しかし開き直って赤ちゃんになろうと思った。そしてロシアから帰国して思うことは、今まで海外へ行ってきた人のことを本などで読んだり聞いていたことが、その通りであるということである。帰国してきてテ−プを聞いたら、「聞こえるわ、聞こえるわ」。そしてその言葉の向こうには、ホストファミリ−のパ−パチカのセリョウジャァやマ−マチカのラリ−サ、ド−チカのアロ−ナ、バ−ヴゥシカなどと暮らした、ナホトカの出来事・風景が浮かび上がってくる。しかし数日経ってもロシア語が聞こえるけど言葉になって出てこない。ナホトカ・ホ−ムスティの報告会でも日本語で言っていた。それが1〜2週間経ったある日真理恵とお風呂に入っているとき、お風呂の中はロシアのナホトカ、日本語はダメと言って、二人で片言のロシア語を言い合っていた。そこで「ナホトカ1日目、新潟サマリヨ−ト・ウラジオストック。アウトブスでこぼこド−ロガ。ナホトカ・ホテル」など言って楽しんでいた。
 ファミリ−の時智子が「この頃主人と真理恵はお風呂の中で、ロシアの1日目を言っている」ということを皆の前で言ったら、皆が聞きたい聞きたいということで思いきって真理恵と言ってみた。これがまたよかったということで、次週に2日目を聞きたいと言うことになってしまったのである。ここがヒッポの良さで、言う方もテ−プなど聞くと実によく聞こえてくるのである。そして今度は「新潟アエロフロ−ト。サマリヨ−ト・ウラジオストック・アエロフロ−ト・ヴェ−チェル。アウトブスでこぼこド−ロガ。ド−ロガ横に標識ナホトカ・心臓ドキドキ。ホテル・ナホトカ・ホストファミリ−。アウトブス窓トントン。オ・」など毎回毎回言葉が増えていくのが分かる。
あるファミリ−の日に、私たちのロシア語での報告を何回か聞いている荒谷玄さんが同じように言ったら、池田妙ちゃんも「私も言えるよ」と言って言い始め、それから今八戸のファミリ−はロシア一色である。
 妙ちゃんや玄さんは私たちの報告を初めに聞いた次の日からロシア語のテ−プが「聞こえて聞こえて」と言ってくれた。そいう意味で場の持つ意味、そしてそこには人と人がいるということ。そして私は海外へホ−ムスティしなければ、言葉は言えないと思っていたが、それも間違いだったなあと気づいた。要はファミリ−の中にいっぱい海外へホ−ムスティしてくる人が多ければ多いほど、そのファミリ−には言葉の豊かな環境が育まれると思う。しかし海外へ行かなくても、人と人が本当に心の底から分かりあえたら、豊かな言葉の環境は育まれると思う。また東北いや八戸という地域性で今後豊かな言葉の環境を形成するには、例え海外へ行けなくても、地域にいる留学生と積極的に交流を持ち、また国内においてもどんどん合宿などに参加することが必要と思う。
 またロシアに行って最初はロシア語を強く意識していたが、今考えるとそこにはセリョウジャァ、ラリ−サ、アロ−ナ、バ−ヴゥシカなどがいて、お互い同じ寄り何処として分かりあえる言葉として、ロシア語があって、英語も日本語もあったように思う。あの時自分はロシア語をここで言わなきゃという感じは、初日や2日目ぐらいであとは無意識であった。お互い分かりあおうということで一生懸命出てきた言葉が、私はロシア語であり、セリョウジャァやラリ−サは英語であったのかもしれない。そういう意味で「共有する。分かりあえる。」ためには、外国語(ロシア語)が必要なのではなく言葉が必要なのであって、人と人との関わり方や人とどう接するのかということが大切なように思う。だから逆にいって物事や空間を共有できる仲間を持つことによって、言葉もまたどんどん膨らんでいくように思える。
 家族で八戸から新潟へ行くだけで大変で、ああ一人で行けば良かったかなあ、娘たちの世話でロシアに行っても、赤ちゃんしていられないなぁと、ふとウラジオストック行きの飛行機の中で思っていた。私はナホトカでは娘たちのお父さんとして、そして夫としての意識もあったが、今思うとセリョウジャァ、ラリ−サの友人みたいに接していたけど、中身は赤ちゃんだったなぁ思う。本当にセリョウジャァ、ラリ−サにロシア語で言われて、大部分は想像の世界で、「ダァ−」や「ニェ−ト」と返答していた。最初は何処へ連れていかれるのか不安であったが、2日目あたりで安心できたのは、ホストを信頼し赤ちゃんになりきったからだと思う。またロシアから帰って来て、よけいにテ−プのロシア語が聞こえてくるのには、家族4人がロシアで同じことを共有でき、それの思い出が家庭の場において、いつ何時でも言えるのからだと思う。そういう意味で家族で行けてよかった思う。本当は毎年ナホトカに行ければ良いが、行けないので、5年後か10年後にナホトカのセリョウジャァ、ラリ−サの家に家族でホ−ムスティして再会したいと思う。
 今確かに自分が変わっているのが分かる。ポエムがフェロウになって変わったし、ロシアのナホトカにホ−ムスティして変わった。本当に今ヒッポが楽しい。できることなら夏にでも、中国の大連やタイへ行きたい衝動に駆られる。
 これからもずっとずっとヒッポを家族で長く続けたい。それに私と智子のDNAがいっぱい詰まった真理恵と杏奈の成長を見るのもまた楽しみである。そして娘たちが大きくなり海外へホ−ムスティした時の報告もいっぱい聞いてやりたいと思う。
 今私が強く思うことは、ヒッポという共有の場で家族の絆を強めて行きたいし大切にしたい。そして多くのいろんな人と出会うことによって、人生を豊かなものにしたい。その豊かさとは、決して経済的ではなく、長男翔を通して思った家族の大切さ、ふれあい、響き合いにあるのかもしれない。その響き合いやイマジネ−ションによって、言葉がどんどん膨らんでいく。初めは娘のためにヒッポに参加した私であるが、今は確かに自分のためのヒッポに変わっている。
 振り返れば、八戸高専の留学生、イディリス君の1泊ホ−ムスティ、そしてロシア・ナホトカへ家族でホ−ムスティ、そして夏休みのアメリカのアメリヤちゃんの11泊のホ−ムスティ、9月にはタイの青年が2泊のホ−ムスティをする。今まさに世界は一つであることを感じる今日この頃である。
 ※毎週火曜日午後六時半より、八戸市庁前の南部会館でヒッポファミリ−クラブのポラ−ノファミリ−が開かれていますので、気軽に見学に来て下さい。
問い合わせは46−0455(中村まで)