VOL. 3 ロシア・ナホトカ・レポート そのB

5月5日(金)
 ナホトカでのホ−ムスティも、残すところ今日1日である。明日の昼には、ウラジオストックへ向けて出発する。そう思うと別れるのが寂しい気分になる。朝から私の妻と長女マリエは、ラリ−サと台所でペリメエ作りを始めた。先日レストランで食べたロシア料理の一つである。次女のアンナはアロ−ナと遊んでいる。私とセリョ−ジィアは暇そうに部屋の中をぶらぶらしている。ちょうどペリメエの生地作りが一段落を終えて、おみやげなどを買いに百貨店などへ連れて行ってもらった。
 日本では今日子どもの日である。スーパーで売っていた小さいこいのぼりをアロ−ナにプレゼントしたら、大喜びで車の窓から外へ出して楽しんでいた。
 夕方、ラリ−サの勤める音楽学校の少女たちが出演する、合唱コンサ−トが船員宮殿であり、連れていってもらった。この小さなホ−ルで行われたコンサ−トでは、十数曲唄ってくれた。中でも私たちのために「カチュ−シャ」を1番ロシア語、2番・3番を日本語で唄ってくれた。そしてコンサ−ト終了後、コ−トに着替えた少女達は「さくら」を日本語で唄ってくれた。ナホトカは敦賀市と姉妹都市を結んでおり、よく日本でコンサ−トを行うために、日本の歌曲も覚えているということである。ナホトカに来て、少女合唱団の歌声を聞けるなんて、考えてもいなかったので感激した。 夕食は、ダスビダ−ニャ(さようなら)パ−ティになってしまった。手作りのペリメエを食べながら、ロシアンウォッカを飲み、語り笑い大いに盛り上がった。

5月6日(土)
 とうとう別れの日がやってきた。あっという間の7日間であった。午前11時30分にナホトカホテル前に集合ということで、荷物の整理に追われたが、少しの時間の合間を見て、セリョ−ジィアにロシアンウォッカやコニャクを買いに、酒屋に連れて行ってもらったり、本屋さんに連れて行ってもらい、絵本とアニメ−ションビデオ、地図を買った。その反面もう心は、ウラジオストックへというより、日本に向いていた。しかしロシア・ナホトカに来て、もう2日目ぐらいから、セリョ−ジャアやラリ−サなどと別れることを想像しただけで、寂しい気分になっていた。だから別れるときは、自分では泣くなあとは思っていた。いよいよ別れの時が来た。バ−ブシュカは私たちをイスに座らせ、祈ってくれた。本当に短いようで長いようなホ−ムステェイであったが、本当に楽しかった。集合場所のナホトカホテル前には、思い思いの思い出を胸に最後の別れを惜しんでいる。泣くまいと思っていたが、やはり泣いてしまった。セリョ−ジャアやラリ−サに抱きついて、泣きたかったというのが本音である。ナホトカを後にして、ウラジオストックに向かう。初めて見たロシアの風景は、私自身にとって違和感はあったが、この一週間の滞在で、ロシアの風景が自分の心の中に違和感がなく、溶け込んでいるのが良く分かる。
ウラジオストックは極東最大の都市で、やはり大きい都市であった。ふと八戸市がウラジオストックとコンテナ船の定期航路を望んでいるということが頭に浮かび、港湾や街の様子が気になった。今夜はホテルへ宿泊する。夜ラジオをつけたら、巨人−中日戦のプロ野球が聞こえてきた。改めて近い国ということを実感する。

5月7日(日)
 ウラジオストックの朝日が見たくて、早起きをする。おじさんにお願いして、特別に屋上へ出してもらって写真撮影をすることができた。本当にスパシ−バ−である。
いよいよロシアともお別れである。不思議なもので、ロシアの思い出も飛ぶかのように、何故か税関が気になる。税関も無事通過して、心は日本である。本当に夢を見ていたような一週間であった。新潟空港に着き、タクシ−で新潟駅に向かう途中、運転手さんに聞いた言葉は、「オ−ムはどうなりましたか」であった。ロシアでは時間がゆっくりと動いていたが、日本は何かしら時間に追われ、落ち着きのないように感じた。


手考足思−豪さんの雑感

 アム−ルランド(東北アジアのアムール川流域を中心とした広大な地域)こそ、日本の誕生やその後の進展にまで影響し続けた、ひとつの文化的伝統の発現地だったのである。それなのに、今の日本人はあまりにもそれを忘れたり、場合によっては意図的に無視しようとしている。だが、このような歪曲や偏向こそ、結局は日本の正体を誤認させるもとともなるだろう。
「・・・・戦争に負けたために、日本人の心の中に、日本のまん中あたりに、勝手に国境の赤線ができてしまった。別に頼まれたわけでものないのに。札幌から大阪へ飛ぶよりも、札幌からハバロフスクやナホトカへ飛ぶ方が近い。このあたりまえのことを、日本人は忘れている。戦時中には大東亜共栄圏を叫んでビルマやシンガポ−ルまで干渉したくせに、負けたとなったらアムールランドのことなど知ろうともしないのである。」 川喜多二郎氏の「素朴と文明」(講談社学術文庫)の一節より

 ナホトカに行ってきましたという話をすると、「ナホトカかあ・・」という人に、何人かお会いした。私も本で知っていたが、シベリア抑留体験者であった。その人たちは帰国する際、ナホトカ港から日本に向けて出発したと言う。戦後50周年といわれているが、私たち一人一人の身の回りには、戦争という忘れ去れようとしていることが、多くあるように思える。

 ★ 町の様子 ★
 さてナホトカは港町で、海から開けた町であることが、町の様子からも分かる。中心街は、湾沿いに駅やバス停があり、通称イカリ通りという、散歩道がある。入り口には大きな船のイカリのオブジェが置かれており、山沿いにはレ−ニン広場そして船員宮殿がある。散歩道には、噴水やベンチ、ペンギンの形をしたゴミ箱など、デザインに凝っているところも感じられた。また町を散策して、子供の遊び場がいたる所にあり、その数の多さには驚いた。しかし日本と同じように、ブランコ・スベリ台、シ−ソ−など遊具は、似たり寄ったりであった。ちょうど春先なので遊具や公園の柵などのペンキ塗りは古老や女性でボランティアのような感じを受けた。

 ★ 文化 ★
 観光と違ってホ−ムスティは、異文化を体験できる。思い出せば数多く、感心させられたり、不思議に思ったりすることがあった。食文化でも、砂糖やバタ−の量には驚いたし、でもやはり私の食のル−ツは、アム−ルランドかなあとも感じられた。八戸に住んでいて、様々な点で北方文化の影響を感じることもある。

 子どもが転んだりした場合、日本の親はすぐ「〜ちゃん大丈夫」と近づいて手を貸してあげるが、ロシアでは子どもが転んでも、親はじっと起きるまで見守り、一人で起き上がったら抱き締めてやる場面によく出会った。日本の親は、子どもの自立など奪い取っているかのようであるし、よけい核家族化して、子どもはかわいいかわいいで、甘やかして育てているように、自分も含めて反省させられた。
 さて国際交流が盛んに行われているが、本当にロシアに行って、「偏見」は良くないことだと強く感じた。私たちはある反面、「偏見」であの国は〇〇であると言ったりする。そうではなく市民一人一人が、国家のレベルを越えて交流することが、現在はもとより将来に向けて大切であると思った。今青森空港から韓国やロシア・ハバロフスクとの定期便で交流する機会が増えてきているし、また八戸市も東南アジアとのコンテナ船の航路、また北米航路やロシアとの航路を模索中である。しかしそこには経済進出だけではなく、人と人との交流が一番最初にあるべきだと思う。
またいつかロシア・ナホトカを再訪したいと思う。