VOL. 1 ロシア・ナホトカ・レポート その@

Здравствуйте
 4月30日から5月7日まで『95ヒッポトランスナショナルホ−ムスティG・Wロシア交流』に家族4人で参加した。
これは言語交流研究所・ヒッポファミリ−クラブが毎年行っている海外との文化交流の一環で、韓国、アメリカ、メキシコ、マレ−シア、タイ、インドネシア、フランス、スペイン、ドイツ、ルクセンブルク、ロシア、イタリア、台湾、中国、オランダ、カナダ、ミクロネシア連邦などへ、年間約1500名が海を渡り、約100ヵ国2000人もの人たちが日本へホ−ムスティにやって来ている。ロシアへは1才〜50才までの63名の人が参加した。
 私自身病気を患っており、いつまた日常生活の活動に制限がかけられるのかという不安もあり、いま元気な時に家族揃って思い出を作っておきたいという思いもあり、思い切ってロシアのナホトカにホ−ムスティすることにした。

 私たち家族が今回ホ−ムスティした町ナホトカ(НАХОДКА)は、ロシア沿海州(プリモ−ルスキ−地方)南部、ピョ−トル大帝湾の支湾であるナホトカ湾に位置する小さな港湾都市である。ナホトカはロシア語で「見つけもの」という意味で、1859年この海域で遭難したロシア艦船の船員が地図に載っていないこの地に漂着したことに由来している。
 1869年に最初の入植者が定住し、船舶修理業者や漁業を中心に発展し、第2次世界大戦後は極東の貿易港として開発された。私はもちろんのこと家族にとっても、近くて遠い国ロシアのナホトカは未知なる所で、その地のホストファミリ−を通して一人一人どんな「見つけもの」をするのか楽しみでもあった。

4月30日(日)
 新潟の空は晴れわたっていた。
私たちは新潟空港発15時30分のアエロフロ−ト・ロシア航空SU808便に乗り、不安げな表情と楽しさが交錯する中で、機内食を食べ終わると、もうそこはウラジオストック空港であった。時計の針は17時日本との時差は2時間で19時である。
 ウラジオストック空港は私が今まで見た成田空港や羽田・伊丹・青森・三沢・新潟空港、フランスのシャルル・ド・ゴ−ル空港やギリシアのアテネ空港とは比べもならないくらい貧弱で、トイレに入って現在のロシアの状況が少しは掴めた気がした。入国にはだいぶ時間がかかりナホトカへ向かう頃、時計の針は21時を回っていた。ウラジオストックの空はまだ明るく、私たちを乗せたバスは一路ナホトカに向かった。バスから見渡す風景は、自然環境が似ているせいか、また北方文化の影響のせいか、私が住む東北または北海道を思い出させた。
 ロシア語に「ニチェヴォ−(たいしたこない。なんとかなるさ)」という語がある。ふと荒涼たる景色を目の前にして、私は宮沢賢治のデクノボー精神を思い出した。デクノボ−精神は法華教のこととして語られているが、ロシア正教が東北地方まで宣教活動されていることを考えれば、賢治も東北の大自然を目のお前にして、「これぐらいたいしたことはない、なんとかなるさ」ニチェヴォ−・ニチェヴォ−・・・・・デクノボ−と言ったのでは?とバスの揺れに身を任せて独り空想に浸っていた。
 道路沿いの標識にНАХОДКАという文字が見られ、それから数十分してホストファミリ−の待つナホトカホテル前に到着した。今でも覚えているが、私たちが座っている窓の外に、私たちを受け入れてくれるセリョウジィア(パパ−チカ)・ラリ−サ(ママ−チカ)・アロ−ナ(ド−チカ)の姿があった。出発前に我が家に届いていたあの写真の人達が目の前に!ラリ−サはカ−ネ−ションの花やチョコレ−トを私たちにプレゼントして、自分の着ている皮のコ−トで私の娘たちを寒くないように覆ってくれた。私自身はス−ツケ−スをバスから降ろすので精一杯であった。
簡単な自己紹介をして車(日産スカイライン)乗った。パ−パチカに「ヒデクニさんロシア語話せますか?」と突然日本語で言われたのにはびっくりした。
 私たちが泊まる所は、3階建のアパ−トの2階であった。(後で教えてもらって分かるが、ここがセリョウジィアのお母さん(バ−ブシュカ)の家である)
時計の針は夜の11時を過ぎているのに、夜の食事を準備していてくれた。テ−ブルの上に並べられた、パンや茹でたジャガイモ、ソ−セ−ジ、野菜、ワインなど、その一つ一つがとてもとても嬉しかった。(その反面、新潟駅で買った駅弁を暗い暗いバスの中で食べたのが悔やまれた。)
そして私たちは早速持参した、はちのへの名が印刷されている提灯、八幡馬、時計、イヤリング、ミニマウスちゃんのぬいぐるみ、八戸の案内書、八戸百景、十和田湖の絵はがき、貴ノ浪の手形サインと相撲カレンダ−などをプレゼントとして、一人一人に手渡した。
 もうあっという間に1時近くになっていたので、「スパコイナイノ−チ・スパコイナイノ−チ、スパシ−バ−・スパシ−バ−」と覚えているロシア語を言い、セリョウジィア達は自分の家に帰って行った。
〔5月3日にセリョ−ジィアの住んでいるアパ−トに立ち寄った際に、近くの公園で皆で遊んでいるとヒデクニ・ヒデクニと私を呼び、アパ−トの中を見せてくれた。実を言うと受け入れのことを言われたのは2〜3週間前でそれから部屋の壁の壁紙を張り替える最中に、間に合わずこうなってバ−バチカの家に泊まることになった。この壁紙どうというラリ−サに、私は「ハラッショ・オ−チンハラッショ」というだけで、涙が出そうになり、ありがたいと思った。セリョ−ジィアには「バイショ−エ、バイショ−エ・スパシ−バ・スパシ−バ」「セリョ−ジィア・ラリ−サ・胸を撫でて、首を横にしてオ−チンハラッショ・スパシ−バ」と言うと、セリョ−ジィアはスパシ−バ」と答えてくれた。そして「今度来るときはきれいになったアパ−トに泊まって」と言ってくれた。ロシア語が分からなくても何故か分かっちゃうから不思議であった。〕

5月1日(月)
昨夜は遅くまで楽しんだので、ゆっくり
休んでという言葉に甘えて、朝9時頃起床した。バ−ブシュカに「ド−ブラエ・ウ−トラ」と言ってみたら「ド−ブラエ・ウ−トラ」と返ってきた。あ〜言葉が通じたという変な自信を持ってしまった。セリョ−ジィア達が来て、朝食を一緒に食べたが、朝から「ダバイ、ク−シェ・ク−シェ」の世界で、「フク−スナ・フク−スナ」と言いながら、パン、キュ−リ・トマト・ズワイガニの料理などを食べた。
 真理恵は、朝からの沢山の料理におなかがいっぱいになり、「ク−シェ・ク−シェ」と言われても「ニェ−ト」と言えず、顔の前に手を持ってきていらないと言うゼスチャ−が、ラリ−サには大受であった。
 その後ナホトカ市内の展望台や母の像を案内してもらい船のレストランで休憩した。まだ2日目でお互いの意志の疎通ができず困った状況になったが、お互い何とか会話が通じて、ひとまず安心した。
 その後セリョ−ジィアのお姉さんの家にピアノがあるということで、お姉さんの家に向かった。真理恵がピアノを習っているため、ラリ−サとロシアの曲をピアノで一緒に弾いたり、いろいろ教えてもらった。おなかが少し空いたので焼きそばを食べようと言うことになり、セリョ−ジィアが韓国製のカップ焼きそばを持ってきた。しかしバ−ブシュカの家に帰ると、バ−ブシュカはボルシチを作っていてくれた。このボルシチも家庭的な味で「オ−チン・オ−チン・フク−スナ−」で、マヨネ−ズを入れるとこれまた「オ−チン・オ−チン・フク−スナ−」であった。そして「マロ−ジュナエ(アイスクリ−ム)」をラリ−サはわざわざ買いに行ってくれた。
 その夜、妻や娘たちがシャワ−を浴びている間、セリョ−ジィアは私に「ピ−ヴォ(ビ−ル)」を飲みにちょっと行こうということで、車の中では「バイジョン・パピヨン・ピ−ヴォ(ビ−ルを飲みに行きましょう)」「ハラッショ・ダァ」を何回も聞いては言い返していたが、内心はどんな所へ連れて行かれるのか不安であった。
 お店の前には何人かのロシア人が立っており、満員の様子で断られ、次の店に入った。2階からは音楽が聞こえ、まずはクロークがありコ−トを預けるが、セリョ−ジィアは何やら会話しているが、ここも満員の様子で、手を広げて見せた。しかしとりあえず階段を上り、ドアをあけたら左側にレストラン、右側がバ−になっており、バ−は満員であった。セリョ−ジィアがレストランの方に座れないか、一生懸命お店の人にお願いをしているのを見て、私はセリョ−ジィアに「ニェ−ト・ニェ−ト」と言って外を指さした。セリョ−ジィアは私に謝って、最初行った店にもう一度行った。この店は何か映画にでもでてきそうな港町の酒場風で賑やかであった。ビ−ルを飲みながらセリョ−ジィアといろんな話をした。ほとんどロシア語も英語も話せないが、思ったより意気投合した。その後皆が待っているアパ−トの玄関に立つと、部屋の中から子供たちの大声が響いてきた。子供同志すっかり溶け込んでいるようだ。
 とにかく会う人会う人にズドラスビ−チェと言っていた自分を思い出す。きょうも一日が終わり「スパコイナイノ−チ・スパコイナイノ−チ」と言って別れ、娘とソファベッドに入って眠りについた。


手考足思−豪さんの雑感
アミュズ95年1月号に、今年の目標ということで家族で「外国へホ−ムスティ」を掲げたが、どういわけか実現してしまった。遠くてよく分からない国など、社会的にもいろいろ言われるロシア。でもそこには私たちと何ら変わらぬ人々が住んでいた。私たちよりもっともっと気持ちの暖かで素朴な人々が住んでいた。短いホ−ムスティであったが、日本のいろんなことが見えてきたことも確かである。帰国後も国際電話をかけあっている。       Пока
つづく